執着。

執着(しゅうじゃく、abhiniveza अभिनिवेश (sanskrit))とは、仏教において、事物に固執し、とらわれること。主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。

執「著」と書くこともある。仏教用語というより、一般的な用語であり、現代語の執着(attachment)によく似た意味で、煩悩の用語としてのrāga)あるいはlobha)に近い。

                                          Wikipediaより

人を「外」で判断してはならない
けれどそこから「中」を知るのは難しい。だから片方だと勘違いをする。




ある日、ある人が孤立し、孤独に戦っていることを知る

それを知ったところでどうすることも出来ない自分が不甲斐なく、その状況に追い込んだ「原因」に少なからず自分がいることが情けなくなった…それでもまだその人の中に私がいるように感じた。ありたい私とは違うけれどまだそこにいると感じた。



ある日その人の「独りではなく出掛ける日常」は続いていることを知った。

出先はちょっと特別な場所。
私が思うに普通の人にとっても特別な場所だと思う。
お買い物とか映画とかそんな場所じゃなく。辛く大変な時には行かないであろう場所。
でもその人にとっては特別であって、かつ「日常」の場所なんだろう…

日常の場所なんだろうけど…
だけど…

なんだ1人じゃないじゃん。
孤独じゃないし孤立してないじゃん。
ちゃんといつものように楽しんでるじゃん。大丈夫なんじゃないの?
って思った。
孤立はしても、孤独じゃない
いつもそばにいていい人はまだちゃんとそばに居るんじゃんって
私はもういないじゃん、いらないじゃんって。



哀しい顔が浮かんだ



あっ…違う…
心が孤立し、孤独を抱えているんだ


私が周囲を驚かせたように
みんな大小いろいろ持って生きている。
見た目じゃ分からない。
人は「外」を作るから。



あぁ、この人は
私より「複雑」な心の持ち主だった
私より「矛盾」を抱える人だった
幸せなハズの時に思い悩み
諦めたと笑い
でも諦めきれずに苦しむ

その時もその場所へは行っていたね…
その時もそばにいていい人は居たね。


知り合ったばかりの時は、
その状況が私を不思議がらせ、不信にさせた。
私とは状況が違うのに、
しなければならない義務もないのに、
ワザワザなぜ選んだのか。
何故苦しむのか…



温かな心を知った時に分かった。
温かな心に触れた時に痛く哀しかった。


道化でいいんだと微笑みながら
道化では居たくないと悲しく呟く




影を与えた
一緒に居る人に見せられない影を
私にしか踏み込めない影を
私への執着。

だから「両方」を知らせたのだろう。
先のように「勘違い」しないで欲しいと
影は色濃く残っていると

     
     それが影ではなく光だと思いたい
     外より大切なものだと思っていたい
     それが憎しみではないと思いたい


心を通わせ触れ合わせた
離したくない、離れて欲しくない存在
これは哀しい執着なのか…


それでも繋がっていたい


執着。


執着、例えこれが負の言葉でも…。


抱えていたい。